表現はつねに自由であるべきだが、ともなう責任から逃れられるわけではない。

自由を「責任を問われない」ことと勘違いしていたら不幸だ。むしろ自由は、自らにルールを課せない者には荷が重いと考えた方が良いと思う。

このところのコミックやアニメーションの表現において、倫理規定に引っかかるケースが散見されると聞く。少なくともグレーゾーンに足を踏み入れるケースが目につくと。表現に対して意欲的であったり、ギリギリの所に挑戦する心意気は買いたくもなるが、残念なのがそのほとんどが性的表現において、と言う部分だ。あるいは暴力表現。ほとんどが内向きなのだ。社会性へのテーゼではなく、私的なツボを刺激するのみではないのか?

性と暴力の表現は常に社会性や倫理性において焦点となりがちである。文芸の世界においても映像の世界においても。だが、安直な、というか低俗なセクシャル表現が横行するのは、若干子供じみてはいないかと心配になる。むしろ倫理を盾に規制を引き込む理由付けにされないか、と。アメリカン・ニューシネマは、「何も残さなかった」と言う点で画期的だが、それでも、あの時代の怒りのたぎり、そしてくすぶりをフィルムに残したという意味で社会性があった。

別に聖人君子ぶって清廉な道を問うてるつもりはない。だが、とりつかれたように性的表現に向かうレミングのような作品がなんと多いことか。むしろ表現を狭めているだけではないのか。

重要なのは、その表現法によって、何を伝えたいかと言うことだ。実験映画でもない限り、表現とは目的ではなく手段であるべき、というのがおいらの意見だ。単にリビドーを喚起するだけのポルノまがいだったら、御免こうむりたい。たとえば永井豪の作品が「それだけ」じゃないことは読んでもらえばわかると思う。作り手の皆さんには、「それだけ」の作品に堕ちてヨシと思うのか。それを問いたい。

※風呂絵師に言われたかねえや、とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、「だからこそ」という思いがあるのですよ。わかってもらえるとも思いませんが。