いわゆる「萌え系」の源流が、未来少年コナンのラナやカリオストロの城のクラリス、風の谷のナウシカの主人公などであったことを考えるに、宮崎アニメの本質は「萌えアニメ」ではないかとおいらは考えたりもするのです。
いや、もちろん今の萌えアニメとはずいぶん違うものだし、宮崎キャラの萌えはどちらかというと、ディズニーや海外アニメの女の子キャラに見る「萌え」の要素とかなり近い。萌え系を揶揄する気もないし宮崎アニメに批判的なことを言おうとしてるわけじゃないけど・・・ちょっと待て、なんかあやしいな自分の意見が(苦笑)
しかし、「女の子のかわいらしさ」や「なまめかしさ」みたいなものが宮崎駿監督作品の要素として不可欠である気がして、なのにそれを正当化することがはばかられるような変な空気があるように思えるのは思い過ごしでしょうか。
「宮崎アニメを萌え系と同列に語るな!」的な。
それこそ、「萌え系」や「(一般的な)アニメ」と「宮崎駿作品」とは格が違う的な。
と思っていたら、冒頭の「なぜいつも女の子?」なる質問を果敢にも宮崎駿監督に浴びせた記者がいました。外国人記者です。今まで日本人はこの質問をしたことがあるのでしょうか。無いとしたらそれはなぜ? ・・・それはさておき。
宮崎監督の答えは・・・ちょっとおいらには理解困難。
今、スタジオの若いスタッフに、「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。それはとても難しい作業なのです。
なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて・・・つまり女の子たちとは違うのです。少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います。
それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。
その年齢の少年たちは実に簡単に世の中のワナに引っかかるのです。つまらないカードを集めたり、つまらないラジコンの車に夢中になったり、あっというまに商業主義のえじきになってしまって、なかなか心の中を知ることができないのです。
わかりました?(苦笑) 「なぜ主人公は女の子ばかり?」に対する答えがこうなのです。
主人公たるに足りる条件として、女の子はそれを満たすけれど、男の子は満たせない、ということなんですよね? で、さかえさん無い頭を振り回して考えた。
ベイブレードとかカードデッキとか、ゲーム、オモチャにすぐ飛びついてしまう、かといってそれが全てではないし生涯の友とするわけでもない、移り気で欲深い特質が、男の子を「ドラマ」たりえる生き方に投入できない、ということなのか。少なくとも「タイアップもの」を手がけたのを目にしたことがない宮崎駿監督ですから、「商業主義と無縁の作品に男の子を主役とすることが困難だ」と考えていると。
そう考えると、アイアンマン映画の「カナヅチトンテンカン魂」は、そのヒントたり得るのではないか。
「日曜大工ゴコロ」とも書きましたが、男の子はそういった「自室にこもってコツコツ何かを作る」事を面白がる性質がある、と思えます。あるいはコレクター的性質。ガンプラとかフィギュア、を引き合いに出すとやや商業主義の匂いも漂ってきますが、そうじゃないものもいっぱいある。そもそも商業主義の最たる前述のゲームやオモチャに、なぜ男の子は惹かれるのか? 商業主義がどうのと言う前に、本質も本質たる「根っこ」の部分を知る必要があるのではないでしょうか。商業主義はそこを突いているだけで、「手段」でしかない。
これまでの宮崎駿監督の発言からも、商業主義に拒絶反応があるのは理解できます。が、そんな理由だけで宮崎アニメでは「男の子」は主役をはれないというのなら、かなーり残念に思います。ではなぜ男の子は商業主義に踊らされるのか、もうちょっと食い下がってはもらえないのだろうか。
もちろんこの考察が、的を射ている自信はないので何とも、なのですが。
ただ、数少ない大人の男が主役をはっている「紅の豚」、ここにはカナヅチトンテンカン魂に通ずるものがあると思うんだけどなあ。宮崎駿監督がそこに気づいてないことはないと思うのだけれど。
もう一点。前述のインタビューでは「少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います」ともおっしゃってます。自分に正直に生きる女性は美しく艶やかですが、男ってそうはいかない。本質的に男は弱っちくてめめしい部分をもっていると思うので、自分に正直に生きようとすると途端にダメ出しを食らう(笑)。男の子を主人公にしたアニメって「男は負けるとわかっていても」とか「男たるもの」とか、あれやこれや強要されるものが多いじゃないですか。それは所詮、虚勢のメッキでしかないことが、映画にしてしまうとあらわになるのがイカンとか、そういうことなんでしょうか。
最後に、誤解されそうなので言い訳します。これまでいろいろと宮崎駿監督の発言やインタビューやステートメントを読んだことがありますが、そのほとんどがおいらにとって共感できるものでした。むしろ宮崎駿作品よりも宮崎さん本人の言葉の方がはるかにしっくり来る、というくらいに。だからこそ「なぜ女の子なのか」のテーマについて理解したいと望んでるのです。ちゅうこって批判したいわけじゃないんですよなにいってんですかやだなあもう。
このテーマ、続くかも知れない。スカパーで、マチズモに起因するアメリカ的男性観がかいま見えた気がした番組があってですね・・・
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