ブリストル探検隊を総括してみる
アニメ, ブリストル探検隊 No Comments »お気づきの方も少なくないでしょうが、ブリストル探検隊は、スチーブンソン作の古典「宝島」を下敷きにしています。正確には宝島を下敷きにしたMMORPGを原作とするテレビアニメシリーズということになります。
宝島の登場人物、ジム・ホーキンズ、リブシー、ジョン・シルバー、フリント船長といったところが、役柄は関係なく名前だけ引き継がれています。物語の発端が英国ブリストルというところからも、宝島を引用していることはあきらかです。
現代では「冒険」がリアリティをもつ世界観が作りにくいということで、架空の時代、架空の都市を舞台にするのは、アニメでもゲームでも洋の東西にかかわらずトレンドですが、巨大な船がひとつの島、ひとつの都市として描かれるのは、なかなかインパクトもあり興味深かった。その事に何一つ説明が入らないというのも好感が持てましたね。終わってみればブリストルもゴールドアイランドのひとつ、ということになりますが、そこに言及しないのも、設定に寄りかかりすぎない姿勢として好き。
以前のエントリにも書きましたが、伏線を伏線のための伏線として書かず、整合性やリアリティのための言い訳をせず、「そこに生きている人々」を徹底的に描くことに腐心しているのがいい。説明は、それ自体がドラマになるのでなければするべきでないというのが脚本の基本。それが守られてますね。
チャイ船長=神官アンナが、ジンの母親であることをついに告白しなかったのは正解。ダメなドラマでは、告白することで涙と感動を、となるところですが、神官アンナとポト・ホーキンスとヘルメス、その関係性が生んだ悲劇が、ヘルメスが天上の扉を求める野望、そして今般の騒動の発端となったわけで、当事者たる自分が今さら母親ヅラすることはできない、とアンナさんが考えるのは実に自然。「人間が描けている」というのはこういうことなのだな、と思います。
そもそもジンはあくまで「行方不明の父親ポトを探したい」ということが冒険の動機でしたが、母親のことは一切口にしていない。母親の思い出がまったくなく、執着もないように見える。そんなところからもアンナさんが、罪の意識からでしょう、ジンに自分の思い出を残さなかった、親子の絆を自身で許さなかった事がうかがえます。本来、結婚を認められない神官であった自分が戒律を破ったことも無関係ではないでしょう。名乗らなかったことでかえってドラマになっている。そう思います。
ヘルメスを最後までその本意が知れないキャラクターとして描いたことも見事。当初はブリストルの繁栄のために天上の扉を開けようとしていたようにミスリードさせていましたが(おいらが引っかかっただけか・・・)、実は若き日のヘルメスはそうだった、けどアンナをめぐる愛憎から、愛と友情を失い、絶対的な強者を目指すようになったというのも展開として無理がない。そもそもヘルメスの野望の動機が、アンナという女性をめぐっての愛憎ということに意外性があった。その構成がすばらしい。
まあ、放り込みっぱなしで回収しなかったファクターもありますが、それすらも説明的にならないためにやらなかったと言えるかも。
一度解説しましたが、「裏」をうまく使って演出していたのも印象に残ります。最終回の白ヒゲとロクサンヌもそうですな。「ロクサンヌの姿を見た」というバルカン博士の一言でロクサンヌ探しに表舞台を去る白ヒゲ、そこからまったく姿を見せず、エピローグでロクサンヌと店を出して幸せになっている、という流れ。ドラマの本流でクライマックスの重要なシーンが続くので、ここに白ヒゲを絡ませることはできない、そこで裏に回してエピローグにつなげることで、ドラマの本流を乱さず、ちゃんと白ヒゲのドラマも成立させるのです。キャラクターとしての白ヒゲにスタッフが愛情を持っているからこその演出で、ドラマの比重をきちんと整理していないと、こういった群像劇では何でもかんでも画にしてしまいがち。それが群像劇だと勘違いしている作品も少なくないですから。
それにしても、冒険もののジャンルが少なくなって久しい中、王道の冒険ものをこれほど丁寧に、娯楽作品として作り上げることに感心ですよ。この作品には見習うべき点がいっぱいあると思います。昔の日本のアニメにもよくあった、素朴で荒削りだけど志は熱い、所々に光るものがある作品でした。いや、今の日本のアニメ界でもこういうものは作れるし、作りたいスタッフはいっぱいいるとは思うんですよ。ただ、今の日本のマーケット相手では作りにくい、商品になりにくい状況なのかな、と思います。
できるとしたらレベルファイブがらみかな。勝ち組に乗っかるというか(最後に毒かよ)