以前のエントリにつづいて、TOKYO FMのCMというか広告というか、の話。

その1。最近、ますます太った亭主をたしなめる奥様。すると亭主はこう答える。
「これはおれなりのエコなんだ。だって風呂の湯が少なくて済むだろ?」

その2。自分はエコだという男。なぜならこれまでつきあってきた彼女の名前がミエコ、サエコ、今はヤエコ。そしてみんな江古田に住んでいる。みんなエコがつく名前。

その3。奥様二人の自慢話。自分はエコバッグが好きで、もう20枚集めた。イヤわたしは30枚だ。わたしたちってエコですよね、と。

締めくくりは、「ちゃんとエコと向き合おう。アースコンシャス・TOKYO FM」

相変わらず、広告として機能してないと思う。

「それはエコじゃないよ! ちゃんとまじめにエコしなさいよ!」ということを表現しているつもりなのだろう。だがそれは、エコ的に絶対やっちゃいけないことをしているわけではない。とるに足らないことだ。このCMを耳にしたからといって、聴取者にエコロジー活動を訴求できるだろうか? はなはだ疑問。というかむしろムダ、すなわちエコの対極だ。

イメージCMというものがあって、たとえばそれが直接、商品を前面に出したものではなくても、映像がかっこいいとか、タレントがかわいいとか、ドキッとするとか、そのことでCM自体が話題性に富んでいるもの。木村拓哉のカップヌードルのCMなんかがそうだと思うけど、CMの印象自体が商品の印象として視聴者の心に焼き付くという手法。

「ちゃんとエコと向き合おう」の場合も、そこを狙ったのかもしれないが、この場合はアピールする目的が商品ではなく、エコ活動の啓蒙にあるはずだ。

これがカップラーメンのCMなら、「あのCM、おもしろいよな」と話題になり、商品自体が脳裏に残り、店頭でそれを見かけたときに「そういえばあのCMの・・・ちょっと買ってみようかな」、となるだろう。が、これはエコ広報なのだ。イメージCMの印象が、聴取者のエコ活動にどうつながるというのだろうか。

エコ広報ならば、エコを実現するにおいて「なにをすべきか」「なにをすべきでないか」を訴求する必要があるはずではないのか。そして聴取者に、「エコ活動をすることで、あるいは何もしないことで、我々にどのような影響が及ぼされるのだろうか」と想像させるCMでなくてはならない、そう思うのだが。なのにこのCMは、実に「どうでもいいこと」しか頭に残らない。しかも肝心のネタが、壊滅的におもしろくない。

ちゃんとエコと向き合うべきは、CM製作者の方だ。

うわー、それが言いたかったんだろってオチになっちゃった(^-^;)