「魔法にかけられて」はなかなか楽しめました。が、手放しでほめるというわけではなく、結局のところ、この映画を見せたいターゲットがわからない感はありました。強いて言うなら、いい大人だけどディズニーリゾート大好きみたいな人? まあ、ディズニーリゾートはいい大人が行く遊園地という側面もあるから、揶揄しているつもりはないのですが。

「現実しか見られなくなった大人たちへ、夢見ることのすばらしさを伝える」というテーマでも内包してそうな気もしますが、その割には「夢見る」人たちへのシビアな視点が現実的すぎるようでもあるし。もしそういうテーマで映画を作るなら、ラストのモンスター化した女王はやり過ぎじゃないかと思いました。もうちょっと現実サイドから「夢見る」すばらしさをリアルに伝えて欲しかった。

エドワード王子のニューヨークでの騒動ももちっと食い足りなかったし、ジゼルの動物アヤツリパワーも随所で生かして欲しかった。でも、あの離婚夫婦がジゼルの言葉をいぶかしげに思いながらも、次の登場ではとっくに復縁しているという「裏のドラマ」を感じさせる演出は良かったな。

今時の映画には少なくなった、往年のMGMミュージカルのような華やかさ、楽しさが満ちていて、むしろそういう映画への回帰がテーマじゃないかとも考えましたよ。おいらは「好きな映画は?」と聞かれたら「雨に唄えば」と答えることにしています。いや、他にも好きな映画はあるのですが、そう答えることで昨今の映画が失ったものを再評価したいというメッセージも込めているつもりなのです。

そういう意味では、ディズニーが今もって映画らしい映画を作ってくれることにうれしく思うのです。映画って何?という命題を考えるに当たっては、おいらは「錯覚」という言葉がキーワードになると思っています。ひとつには、連続撮影した写真を、再び連続的に見せる、いわゆるパラパラマンガにすることで、動かないハズの写真が動いているように見えるのは、ひとえに脳が勘違いしている、錯覚しているということ。そしてもうひとつには、カットの並べ方によって、「そこにないもの」を「あるかのように見せる」錯覚。

映画の勉強をする上で、最初に憶えるであろう「モンタージュ」。初歩の初歩の初歩なテクニックです。たとえば(1)男の顔のアップ、(2)ラーメンのアップ、(3)最初と同じ男のアップ、というカットを連続したとします。これだけで、見た人には、男が「ラーメンを美味しそうだと思っている」と見えるというものです。

montage

しかし、たとえばここで男の顔のアップを、全く関係ないライブラリから持ってきたもので、ラーメンのことなど考えていないとしても、モンタージュの技法によって「おいしそうと思っている」と、いわば錯覚するわけです。

ojisan

ここで、以前書いたかもしれませんが、チャールズ・ブロンソンの「アクターとムービースターの違い」という一説が生きてきます。大林宣彦が演出したマンダムのCMで、ブロンソンが言った「登場人物の心理状態や感情など指導しなくて良い。何歩歩いて、どこで顔を上げて、どこを見てどんなセリフをしゃべるのか。内面でなく見た目を演技指導してくれ」という話。映画とは見た目をフィルムに収めるものであり、カット割りやつながり、画面構成などの編集によって語るもの。それによって、見た人がそこに語られたストーリーやドラマを受け止める、いや錯覚するというものであると言っているかのようです。

仮面ライダーV3の宮内洋さんが語った言葉にもそれは見えてきます。キイハンターや仮面ライダーでアクションシーンを自らスタントした宮内さんによれば、「実際に格闘してフィルムに収めても、それは格闘シーンに見えない。カメラとフィルムの特性を生かして、実際にはあたるどころかかすりもしてないパンチやキックが、カット割りによって激しくヒットしているように見える擬闘(コリオグラフ)、これが映画の演技なんだ」というような話でしたか。これも錯覚によって、見る人に「そこにないものをあるかのように見せている」と言えるのではないでしょうか。

そういう意味では、アニメーションやCG特撮もまた錯覚による映画的なテクニックと言えなくもないですが、これらは「そこにないものを作ってしまう」わけで、錯覚とはちょっと違うものであり、アニメや特撮を映画として認めることに抵抗のある人は、そこを指摘したいんじゃないかと思うのであります。

するてえと、脚本というものは、ブロンソンいうところの「何歩歩いて、どこで振り向いて」のように、「見た目」を書くことによって、カメラやフィルムによる錯覚の設計をするものであって、脚本が小説のように人物の内面や思考を描写するものとは違うというのは、そこにキモがあるんじゃないかと考えている今日この頃、小泉今日子のセカンドゴロなのであります。