2009年M1チャンピオンはパンクブーブーが獲得した。実際オンエアを観てみても、彼らの漫才には安定感があったし面白かった。

昨年チャンピオンのNON STYLEはよくぞ敗者復活戦からはいあがってきたものだが、昨年のような安定感に欠けた。やはり敗者復活戦はいろいろとハンデがあるといえるだろう。むしろ大健闘だったし、彼らの実力は確かなものだと実感した。

一方、笑い飯は、これが彼らの全力全開なのだろう。力がないとはいわない。もはや彼らの持ち味は、M1というシステムでは評価しづらいのだ。彼らの芸風は王道の漫才に比べれば異端。それゆえに王道の漫才師と一騎打ちになったときには不利になる芸風なのだ。だからといって彼らがほかの漫才師に劣るとは決して思わない。むしろそれでも芸風を曲げない彼らは、文字通り無冠の帝王という言葉でこそ讃えたい。安っぽく使われがちな「無冠の帝王」という言葉だが、帝王と呼ぶにふさわしいものはそうはいない。

さて、本題だが、マスコミでははやくもパンクブーブーがブレイクするか懸念する意見が見受けられた。あまりにも彼らに華が泣く、フリートークもいまいちだというのだ。

バカじゃなかろうかマスコミ。

そもそも、M1チャンピオンはブレイクすると誰が決めたのだ? 勝手にマスコミが持ち上げているだけだ。M1とは、芸としての漫才の技術を競い合う場であって、低俗なマスコミ向けのわかりやすいテレビ芸人を発掘する場ではないのだ。

たとえばチュートリアルやアンタッチャブルは、漫才の実力にたまたまテレビ芸人の資質を兼ね備えていただけなのだ。中川家やますだおかだは、いまもって自分のペースを崩さないがゆえに、当初から(テレビ芸人として)ブレイクしているとはいいがたい。マスコミには「芸」と「テレビ受け」の違いがわからないのだ。

テレビ受けとは、ひとえに「キャラクター」である。人柄であったり個性であったり、いい意味でも悪い意味でも「味わい」なのである。M1で競うような「練りに練った芸」は、そもそもテレビにそぐわないのだ。

それはM1で中心的存在である、島田紳助と松本人志がいやというほど味わっているはずである。だからこそ彼らは、安っぽいテレビ芸にあきたらず、真の漫才芸を研鑽し継承していくためにM1を立ち上げたのではないか、そう思うのだ。

かつて島田紳助は、あらゆる漫才師をそれこそ血眼になって分析・研究し、受ける漫才の法則性を見いだした。それが紳助竜介の漫才である。そして彼自身、紳竜の漫才は長く一線にいられないことを痛感していた。漫才ブームの最中に「もう終わってんねんで、漫才ブーム」とネタにしていたのは本心からの言葉だったのだ。

そんな紳助に引導を渡したのが、松本人志だという。ダウンタウンの漫才は、紳助が見いだした「受ける漫才の法則」のことごとく逆をいきながら、人気を獲得したからだ。

だが、同じく天才・松本人志も、テレビという壁にぶちあたることになる。どんなに練りに練った芸・漫才であっても、テレビで披露すればあっというまに消費されてしまうのだ。寄席で客前で披露した芸は、せいぜい100人かそこらが観る計算だが、テレビでは何万人、何十万人がそれを目にする。同じ漫才をほかの場で披露すれば、「それはもう観た」といわれてしまうのだ。

これが演劇や音楽だったらどうだろう。同じ楽曲をほかのテレビ局で演奏し歌っても、「その曲はもう聴いたよ」とは言われないであろう。芝居もそうだ。また、同じ笑いの芸でも、落語なら古典があり、あの名人がこの古典をどう料理するか、という楽しみがある。漫才はなぜか消費されるだけで、「芸」や技術を観てもらえないのだ。芝居好きな人なら、同じ芝居でも初日と千秋楽でどう違って見えるか、という楽しみ方があるが、漫才ではなぜかそういう評価の仕方はされない。通の人はいるにはいるのだろうが。

たとえば中尾彬さんは、数少ない「笑いの芸」がわかる粋人の一人である。ダウンタウンがよく中尾さんをいじり、中尾さんも彼らをかわいがるのは「わかるもの同士」だからである。

悩み抜いた松本人志は、「時間と知恵を費やして作り込んだ芸」をテレビで披露することは、ほぼやめてしまった。昨今、映画作りにいれ込んでいるのは、反動もあるのだろう。北野武が映画に傾倒しているのも、同じ理由ではないのだろうか。

結局、今時のテレビバラエティのように、ひな壇に芸人を並べて、おもしろおかしい話に終始する方が、テレビ的なのだ。いや、テレビ的とはその程度のものなのだ、というべきだろう。テレビは先述したように、キャラクターが命であり、フリートークのおもしろさはそこで生かされる。

紳助は「ひょうきん族」や「笑ってる場合ですよ」で、松本は「笑っていいとも」で、フリートークを学び、したたかにテレビ的キャラクターを演じて見せている。もともと若い頃はフリートークが大してうまくなかった松本は(ほんとですよ、そりゃもう)、いいともレギュラーを経て、タモリのフリートーク芸を間近で研究していたと考えるのはおいらだけだろうか。影響を受けたとは言わないが、タモリの頭脳瞬発力、話芸の反射神経、それでいて力まない語り口は、現在の松本にも共通すると思うのだ。そしてそれは現在、「すべらない話」において、「テレビ的瞬発力」と「精緻で緊張感の高い話芸」との融合という新たなステージに至っていると思うのだ。

余談だが、タモリのフリートーク話芸は、情報の集中と解放、いわゆる空気を読む環境適応能力、場に緊張と弛緩を与え空間をコントロールするインプロビゼーション(即興芸)として分析・評価すべきである。それは彼自身がジャズ好きで、かつ居合いの達人(これホント)であることと関係があると考えるのだが、それはまた別の機会に。

話を元に戻す。つまりは「芸とは何であるか」「テレビ的とはどういうことか」を全く理解していないマスコミの不勉強・無知が、M1チャンピオンがブレークするかどうかなどという、どーでもいいことに露見してしまうのだ。漫才芸の最終的なステージは舞台、寄席なのだ。その戦いをテレビ中継するということ自体は、テレビ的であるということに対する反旗であると考えるのは、うがった見方かもしれない。だが、漫才芸の頂点がテレビで受け入れられるかどうか懸念するなどは、筋違いも甚だしいことなのだ。

そもそもテレビに出ていることがスターであるという考え方自体が時代遅れだ。それほどテレビにステイタスがあると考える向きは、もう絶滅危惧種なのではないか。かつてテレビ出演をかたくなに拒み続けたミュージシャンがいたが、彼らはステージで演奏すること、あるいはレコードを制作することでお客さんに自身の表現を伝えることこそが本流であると考えていたのだろう。テレビに出ないからといって、これらのミュージシャンがスターではないと言い切れるだろうか。あるいは、タカラジェンヌや歌舞伎役者のように、舞台でのみそのパフォーマンスを披露する役者が、スターではないと言うのだろうか。

そんな「権威的テレビ主義」のマスコミは、テレビと共倒れで、ゆるやかに下降線を描いて死んでゆくのだと思うが、否定できるだろうか。