さて宮崎アニメの話題ついで。ポニョの場合、手描きにこだわった、暖かみのあるアニメということが売り文句の一つとなっております。それはそれで素晴らしいことであり、デジタル製作の環境ではやがて廃れてしまうかもしれない、ノーCG・ノーデジタル技術の継承をきちんとやっておこうという点では大いに評価したいです、はい。

でもね、デジタルや機械を使うと暖かみは無いのか?という話となれば、ここは反論したいのです。

ようは手段と目的の問題であり、「暖かみを出すこと」が目的であるならば、「手描きでなければならない」というのは作家のこだわり、手法の選択であって「手段」でしかない。そこを見あやまって欲しくないわけです。宮崎監督は手段として手描きを使ったのであり、それ以外の手段では「暖かみを出す」という目的を実現できない、と考えるのは早計ではないかとね。

音楽の分野でも、時代とともに同じようなことがよく言われます。シンセサイザーや「打ち込み」(シーケンサーによる自動演奏)が世に出始めた頃、批判的な意見としては「電気や機械が作った音楽など、暖かみがない」というものをよく耳にしました。それに対し某ミュージシャンが次のようなことを言っています(発言内容がおぼろげ記憶なので、ここは名前は秘します)。

「電気は自然界に存在するものであり、それを駆使する自然科学に根ざした楽器は何ら自然界からかけ離れたものではない。ようは音楽家がどう音楽に魂を込めるかであり、楽器の構造の問題ではない。機械がダメと言うなら、ピアノやサキソフォンはどうだ。あれほど複雑で構造的な機械はないが、その音に暖かみがあるかどうかは演奏者次第だ」

そもそも、ムーグやオーバーハイムといったアナログシンセが登場した当時は、「シンセの音は冷たい、音楽に使える音ではない」といわれたものですが、ヤマハDX-7やシンクラヴィアといった「デジタルシンセ」が登場すると、今度は「デジタルシンセには音にアナログシンセのような暖かみがない」と批判が出たものです。

話をアニメに、というか映画に戻すと、ムービーカメラという機械を駆使し、銀塩フィルムにレンズを通して光を封じ込め、音響は磁気記録し、映写機でスクリーンに映し、アンプとスピーカーで音を再生する映画の仕組み、どれだけ電気と機械に支えられているか、と考えたら、音楽業界で「電気・機械論争」、「アナログ・デジタル論争」と同じことが言えないでしょうか。

出始めのフラッシュアニメがどうにも「電気紙芝居」的な(この言い方も批判的には使えないなあ)だったものが、技術の進歩と使う側の習熟によって、暖かみも出せるということは、特にカートゥーンをご覧になる方ならわかっていただけるのではないでしょうか。フォスターズ・ホームが「冷たい」アニメーションだとお思いですか?

まあ、ディズニーの劇場アニメがCGだけになってしまったり、日本でもトゥーンシェイド系のコンピュータアニメが増え始めてくると、手描きにこだわる気持ちもわからないではないですけどね。特に小学館プロ系の「デュエルマスターズ」や「きらレボ」のような、習熟度がいまいちのコンピュータアニメを見せられると、特にね。でも、それらも時代とともに、こなれていくんだと思いますよ。